水城(みずき)
~大和王権によって築かれた大宰府の防衛ライン~
Parameters of
this castle

日本書紀に「天智(てんち)三年(664) 対馬嶋(つしまのしま)、壱岐嶋(いきのしま)、筑紫国(つくしのくに)などに防(さきもり)と烽(とぶひ)を置く。また、筑紫(つくし)に、大堤(おおつつみ)を築きて水を貯えしむ。名づけて水城という。』とあります。その意味は対馬、壱岐、筑紫の国などに防衛のために兵士を派遣し、通信手段のためにのろし台を設置した。また、筑紫に大きな堤防を築いて、水を貯えさせた。水城という名をつけた。となります。
水城の堤防は、大城山麓(おおきさんろく)から下大利(しもおおり)に至り、全長約1.2キロメートル、幅80メートル、高さ13メートルの人工の盛土(もりつち)による土塁(どるい)で、博多側には幅60メートルの濠(ほり)がありました。現在では「水」という文字を使うのか疑問に感じる人も多いでしょうが、当時は満々と水を貯えた濠と見上げるような大きさの土塁があったのです。
大野城市 -公式ホームページより引用
基本情報
城名(別名) | 水城 |
---|---|
築城主 | 天智天皇 |
築城年 | 天智天皇3(664)年 |
カテゴリー | 飛鳥時代 平城 |
関連項目 | 大宰府 天智天皇 |
遺構 | 土塁 濠跡 門跡 |
住所(所在地) | 福岡県大野城市下大利3丁目7−25 |
指定文化財 | 国指定史跡 |
構造物 | 土塁、水濠 |
問い合わせ先 | 水城館 |
電話番号 | 092-555-8455 |
ポイント
- 主な遺構 :
- 土塁
- 濠跡
- 門跡
- 土塁
- 約10mの高さの土塁が1.2kmにわたって続いており、壮観です。
国家的プロジェクトで国の威信をかけて造営されたことが伺えます。



- 濠跡
- 水城には外濠、内濠が存在していたようで、自然地形を利用して水が貯まるように計算されて掘られていたようです。



- 門跡
- 水城には東西の門があり、現在でも地形が狭くなっていて道として使われています。
西門は官道が通っており、大宰府と外国の使節を留めた鴻臚館を繋いでいましたが、次第に使われなくなりました。
東門側は現在でもメインストリートとなっていて車が行き来していました。



歴史的背景
水城は663年白村江(はくすきのえ)の戦いの翌年に造られました。白村江とは朝鮮半島の地名です。
7世紀初めから半ばにかけて、朝鮮半島では高句麗(こうくり)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)の3つの国がありました。また、中国を統一した唐(とう)は朝鮮半島にまで支配の手を延ばそうとしていました。朝鮮半島を中心とする東アジアは一触即発(いっしょくそくはつ)の状態にあり、海を隔てた倭(わ:日本)=大和朝廷(やまとちょうてい)もこの緊張関係と無関係ではありませんでした。
660年、唐は新羅と手を結び、百済に攻め入りました。同年7月、百済王は捕らえられ百済は滅び、百済の遺臣(いしん)は倭に百済の滅亡を伝えるとともに、救援軍(きゅうえんぐん)の派遣を要請してきました。
百済への派兵は2回行なわれました。1次軍は661年に海を渡りましたが、大きな戦果は得られませんでした。2次軍は663年の2万7千人から成る大部隊で、兵士の動員は西日本だけでなく、東日本にも及び、国家的な戦時体制が敷かれました。
百済救援軍(2次軍)は8月、錦江(きんこう)河口の白村江で、唐・新羅の連合軍と衝突します。戦闘は4度にわたり繰り返され、この戦いで倭の水軍は大敗北をしてしまいました。これが白村江の戦いです。倭の軍は百済の亡命貴族(ぼうめいきぞく)を伴い退却しました。
白村江の戦いで敗退した後、大和朝廷は朝鮮半島における足がかりを失い、また、唐または新羅が倭に攻めてくるかもしれないという危ない状況に陥りました。そこで、大和朝廷は百済から逃れてきた亡命者の技術をかり、様々な防衛体制を整えることに乗り出します。
水城がそのひとつとなります。水城が築かれたのは平野の最も狭くなる場所です。交通の要衝にあたるこの部分に堤防を築くことで、効率よく敵の侵入を防ぐことができたと考えられます。

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水城を地盤工学の視点からみると、当時のハイテク技術を駆使して造られています。 堤防は幅80メートルの広い壇の上に築かれていました。博多側には幅10メートルほどの細長い“テラス”があります。このテラスは濠を渡ってきた後の休憩所となるなど、敵兵にとって好都合な場所になりそうですが、堤防の土が流れ落ちないための押さえの盛土だったのではないかと考えられています。また、堤防の基底部(きていぶ)の真下には樹木の枝葉が敷きつめられていたことも分かっています。これは「敷粗朶(しきそだ)」工法と呼ばれるもので、もともとゆるい地盤を強化するために施されたものです。この敷粗朶の上下では土質が全く異なることも分かっています。
発掘調査で見つかった粗朶は真空状態にあったために緑色を呈し、1350年前に埋められたものと思えないほど生き生きとしていたといいます。しかし、空気に触れた瞬間茶色に変色してしまいました。この粗朶を調査したところ、樹木の特定と刈り取られた時期まで判明しました。樹木は13種類(ヤブニッケイやクスノキ、コナラなど)が特定され、いずれも5月中旬の若葉が多くみつかりました。この調査で救援の2次軍が撤退した9月から半年後の晩春から夏ごろにかけて伐採され、その後一気に堤防の築造にかかったことが実証されました。
大野城市 -公式ホームページより引用
参考文献・サイト