門司城(もじじょう)
~鎮西の玄関口を固める山城~
Parameters of
this castle

門司城は、福岡県北九州市にあった城郭です。
城は、平知盛が源氏との合戦にそなえて、長門国目代・紀井通資に築城させたと言い伝えられています。
寛元二年(1244) 下総前国司・藤原親房が平家残党鎮圧の下知奉行として、鎌倉幕府より豊前国代官職に任ぜられて下向しました。そののち、親房は門司六ヶ郷と筑前国香椎院内などを拝領しました。親房の子孫は門司氏を称し、門司城を本城に、足立・吉志・若王子・三角山・金山に支城を構えそれぞれに一族を配置しました。門司氏はその後三百五十年にわたり北九州の地に続きました。
南北朝時代、門司城には北朝方の吉志系・門司左近将監親尚が拠り、一方南朝方についた伊川系・門司若狭守親頼は猿喰城に籠り骨肉の争いを繰り広げました。
戦国時代、門司半島は豊後大友氏と大内氏、大内氏滅亡後は毛利氏との間の争奪の場となりました。特に大友・毛利氏による永禄の門司城合戦は壮絶を極めました。五回にわたる合戦の後、将軍・足利義輝の仲介により両氏の和睦が成立し、門司城は毛利氏の支配下に置かれることになりました。
慶長五年(1600) 細川忠興が豊前に入ると、門司城には城代が置かれましたが、元和三年(1617)に廃城となりました。
城は、早鞆ノ瀬戸に臨む古城山(標高175メートル)に築かれました。早鞆ノ瀬戸は、関門海峡が最も狭くなる場所で、壇ノ浦の戦いの舞台となりました。現在でも関門橋や関門トンネルの通る軍事上・交通上の要衝の地です。
山頂に主郭部が置かれていましたが、明治時代に海軍の要塞が築かれたため遺構は破壊されています。
門司城 - - お城散歩より引用
基本情報
城名(別名) | 門司城(門司ヶ関山城,亀城) |
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築城主 | 紀井通資と伝わる |
築城年 | 元暦2(1185)年 |
カテゴリー | 南北朝時代 鎌倉時代 室町時代 安土桃山時代 山城 |
関連項目 | 大友宗麟 大内義隆 毛利元就 石垣 |
遺構 | 石垣 砲台跡 堀切(切通) 本丸跡 |
住所(所在地) | 福岡県北九州市門司区門司3270−9 |
構造物 | 堀切(切通)、石垣、砲台跡、曲輪 |
問い合わせ先 | 北九州市門司区役所まちづくり推進課 |
電話番号 | 093-331-1881 |
ポイント
- 主な遺構 :
- 石垣
- 砲台跡
- 堀切(切通)
- 本丸跡
- 石垣
- 明治時代に軍の統治下におかれた際に大規模な改修が行われ、遺構の大部分は消失していますが、わずかながら残った石垣が本丸跡で見ることができます。



- 砲台跡
- 明治時代に大日本帝国海軍によって接収された門司城には下関要塞が置かれ、砲台も設置されました。
大砲は残っていませんが、砲台の土台や兵士が行き交ったと思われる通路等が残っています。



- 堀切(切通)
- 堀切のようにも見える地形ですが、明治期の大日本帝国海軍による改修の影響を受けた切通と考えられています。
軍によって築かれた石塁も確認できます。



- 本丸跡
- 本丸跡には城跡石碑が建てられています。
また関門海峡を一望することができ非常に良い眺めとなっています。



歴史的背景
【門司城の戦い】
門司城は、関門海峡を見下ろす古城山にありました。 毛利元就と大友宗麟は、同じ先祖である中原(藤原) 広季の子孫です。 ひろすえ 宗麟は、豊後国大分(大分市)で生まれ、元就は、 安芸国高田郡吉田村(広島県吉田町)に生まれました。 あ きのくに 毛利元就は、本拠地の安芸に長門と周防の両国を加えて、九州に勢力を伸ばそうとしていました。そのための足場づくりの拠点となったのが、門司城でした。
一方、大友宗麟は、豊前と筑前 の両国に勢力を伸ばしていまし たから、両氏は門司城の支配を めぐって、年から永禄12(1569)年まで、門司城争奪合戦を展開したのでした。 最初の合戦は、天文23(1554) 天文23(1554) 年の秋で、大友軍が数百の人数 で守る門司城に、毛利軍2万余あまりの大軍が襲いかかったのでし た。 大友軍は敗退しました。 宗麟は、その年の10月中旬(今の暦では、11月下旬)に、 門司城を奪い返そうとして、約 うば 2万の大軍を門司城攻略へと進撃させました。

大友軍は、小倉南区の曽根あたりで2軍を編成し、第1軍(8千人)は、足立山(小倉北区)を通って柳ヶ浦へ出るコースをとりました。 また、残りの第2軍は、周防灘の沿岸に そって門司城に向かったのでした。つまり、 大友軍がとった攻略法は、第1軍は大里を 経て門司ヶ浜から城の正面を突き、第2軍 へ は田野浦から城の背面を突くという策でした。 この作戦は成功し、毛利軍を門司城から 撤退させることができました。その後、弘治元(1555)年に、元就は門司城を取り返そうと試みますが失敗しました。しかし、弘治3(1557)年に、1万余りの兵で門司城を攻めた毛利軍は、激しい 戦いの末に、これを取り返すことに成功しました。
元号が弘治から 永禄に改まった翌2(1559)年9月、宗麟は門司城を奪い返すために兵を動かしました。 これに対して元就は、門司と小倉の間一 帯に軍を上陸させ、門司城を攻める大友軍 を城からと柳ヶ浦からの両方からはさみ討ちにしようと態勢を整えました。そして、万が一に備えて、赤間関からも援軍が海を渡れるように、壇の浦・前田の浜に兵船を並べました。宗麟は、毛利軍の動きを見ながら軍を引き返させました。 永禄4(1561)年6月、宗麟は自ら3万を超える大軍を率いて、門司城攻略に出発しました。 こ 門司城は、急斜面の地形に囲まれており、攻めるには難むずか しく守るに易い城でしたから、大友軍は苦戦していました。 宗麟は、「城を守る者どもの肝を冷やす術は、大砲に限ろうぞ」と、使者を大分に送りました。大分に滞在していたポルトガル船の船長に、大砲を使って門司城を砲撃するよう、伝えさせました。

宗麟は、異国の船と人と大砲と弾丸と火薬を使って、世界初の艦砲射撃という戦術を考えついたのでした。門司の田野浦沖に姿を現したポルトガル船から、砲弾が門司城の内と外に飛んできました。城内は大混乱 におちいりました。しかし、ポルトガル船は、弾薬と砲弾を多く積んで いませんでしたから、大友軍は敗退をよぎなくされました。 その後も、両軍の間に戦いは続けられました。その中で、多々良川(福岡市東区を南から北へ流れて博多湾 に注ぐ大河)をはさんでの戦いが、元就と宗麟の間で行われました。 大河をはさんでの戦いのため、にらみ合いが続きました。 この時、大友氏に味方していた大内氏の一族が、山口を奪回しようとしている動きもあって、毛利軍は撤退しました。そして、大友軍が失地を回復する結果となりました。 その年12月、門司城からも毛利軍は退却すると、大友軍が入城しました。 こうして、両軍による門司城争奪合戦の幕は閉じられました。
門司の歴史より引用
アクセス
公共交通機関
関門海峡めかり駅から徒歩30分
※北九州銀行レトロラインは2025年度は土日祝のみ運行しているようです。
自家用車
和布刈(めかり)公園 第二展望台駐車場より徒歩約10分
無料駐車場あり(271台)
参考文献・サイト